昭和四十九年八月四日 朝の御理解
御理解 第四十五節 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、 三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と 言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心し て身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打 たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐 ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれ ど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油 断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」
少し、少し偉くなると、あとは少し金がたまったりすると、人間というものは確かに慢心が起こります。
確かに頭を下げる事を忘れます。これはいつも自分の心をしっかり見つめておきませんと頭が下がるどころか反対に上に方へ上がりだします。
これは恐い事です。そこのところを戒めておられるんだとこう思います。それはどういうようなところから、そういう事になるかというと、結局、地位とか例えば名誉とかあとは財産とかというようなものは、よいものであり価値のあるものだというような考え方からじゃないでしょうかと。ね、お金がなくて貧乏しとる間は、大変【 】としとるけれども金がでけてくると例えて言うとやるものを粗末にするといったようなことやらは、これはものに対して感謝の心がなくなった証拠ですからね。
おろそかにする、本当に人々の本当に情けないこれは【 】だけの事じゃありませんけど、合楽の人達が本当にみんないうなら、貧乏のない世界に住まわなければならないこれはどうでも、いよいよ、いうなら、めいめいが億万長者にならせてもらわなければならない。これはもう、ど-でもならなければならない、合楽の人達は、そういうおかげを頂いたあかつき、どういう事になるだろうか。たった今の事位にすらこう、頭を下げる事を忘れるような傾向がある。
合楽より〈上〉はないような思い方。自分より上はないような思い方。これは恐いいわゆる、天で頭を打つという事は、一番恐い事。天は高いから頭を打つ事はなかろうようにあるけれども、天で頭を打つ事が一番恐いという。その為に神様は、いろいろとお気づけを下さる。
だんだん、少しづつ金がたまってきたら、例えていうならば、ね、たまっていくだけ頭が下がりよるかどうか、おかげでおかげでという気持ちがあれば、頭は下がっていかなきゃならんのだけれども、ね、頭が下がっていかん。
成程、お金というものは、なしには出来ないものであるし、又限りなく頂きたいものでもありますけれども、値打ちがあるという、値打ちという事になると私はそんなに値打ちのあるものではないと思う。私は一番値打ちがあるのは、おかげを頂けば頂く程人間がいうならば、頭が地につく程しに実が実れば実のる程、ね、頭が地につく程しの心の状態が、出来あがっていくという事が、人間の値打ちだと思う。
いわゆる、価値観です。勉強して成功しなければとか、ね、立身出世しなければとか、お金をためなければならないとか、地位、名誉がでけなければならないとか、そういうものに、いうならば、価値づけをするところから、そういうものがでけたとたんに、頭を下げる事を忘れるのじゃないでしょうかね、人間というのは。
ところが人間の、いうならば、値打ちというものをです、ね、徳が身につけばつく程しに頭が下がっていく程しになるという、人間がいうならば、だんだん有難とうなってくる。おかげを頂けば頂く程有難とうなってくるというものが、最高の値打ちであるという、ね、人間価値観の、ね、おきどころから、私は天で頭を打つ人、いよいよ、天地の御守護を内に受けていけれる人というふうにかわってくるように思うんです。私共がどうしても、私が最近申しておりますように、貧乏のない世界、病気のない世界、争いのない世界、そういう、世界を信心していくという事は、人間の幸福の条件ですから、どうでも私共は頂かなくてはいけません。
けれども、それそのものがです、価値があるものではないという事です。ね、人間のいうならば、値打ちというのはですね、出来れば出来る程、有難とうなる、出来れば出来る程頭が下がる、という自分になりつつあるかというところを本気で見とかなければいけません。
金がでけたら貧乏しとる人を見下げる、地位がでけたら地位のない目下の人をいうなら、【】ごのように思う。それだはね、私しゃそれこそ天で頭を打つのが恐い事になってくると思う。そういう例えば、天で頭を打つといったような事がです、今世界総人類の上にお気付けを頂いておる、ね。地球のね、そういったような事をいわれておりますのは、人間総氏子の上に神様がそういうお気付けを下さっておるという事ではないだろうか。
地球上に様々な異変が起こっておる。それもこれは神様が、ね、天地が今のままで人間がいったら、それこそ地球が破滅の状態になるぞとか、人類破滅の事になるという大きな意味合いに於いてです、今、地球上にその人間に【 】づいがくだされようとする原点、そんなものそんなものを、私は地球の危機感というとります。
しかもそれは、もう時間の問題というように、切迫したものを感じます。ね、それがどうでも、私共、一人々がです、本気で真の信心を身につけていかなければいけません。真の信心を身につけていくところに、いよいよ有難とうなる、いよいよ徳を受けていく事になって、人間が謙虚になる。そういう私は生き方の人がです、世界真の平和を祈り、世界総氏子の身の上安全を願うていかなくてはならないと思います。
大変世界とか地球とかいうと大きな事のようでございますけれども、めいめい、一人、一人がです、ね、まず、そういう、祈りの力というか、自分自身が自分の足元のところに心をとめさせて頂いて、おかげを受けていけばいく程、人間が謙虚になっていく。そういう生き方を私は、人間がこの世に生を受けてのその値打ちを置くかと、信心は偉くなる為でも、賢くなる為でもない。只、有難とうなっていく稽古であるという、ね、ものを私は中心にいわば、身につけていかなければいけません。
これはどうでも合楽の皆さんが、お商売をしておる人ならば、お商売大繁盛のおかげを頂かなきゃなりません。これは商売だけの事ではありません、とにかく家繁盛、子孫繁盛のおかげを頂かなければなりません。これはど-でも頂いてもらわなきゃなりません。ね、ですから、それは頂くものと仮定してです、頂いたあかつきに、かえってそれによって、おかげを落とすような事になっていってはいないか。
たったこれくらいなおかげを頂いておるのにもかかわらず、ま、たったというと神様に対してご無礼になる表現ですけれども、ね、例えていうなら、高芝さんがおられますから、高芝さんが、ね、うんなら ああ高芝さん、総代さんとこう人からいわれるようにだんだん、なってきたら、もう俺は総代でございといったようにです、頭を下げる事を、心の中ですよ、形じゃないですよ、・・・・・。 自分くらいな者を総代としてのお引き立てを頂いて、勿体ないという、本当に恐れおおい事だというそういう心状態が地位なら地位ががでければでけるほど、反比例して自分の心を下へ下へと下がって行く。実れば実程、頭のかがむ稲穂かなである。
もう、実れば実る程、謙虚に人間がなっていかなきゃならんのにです、頭をあぐる事が、ね、忘れておるという事になってきたら、おろそかになってきとるというならば、それは本当の実じゃない形はでけておるようにあっても、しいらばっかりだという事になりますから、恐い事です。
ほんなら、例えば、前に高橋さんがおられますから、成程、高橋さん、日本一の寿司屋さんを目指しておられます。又日本一の寿司屋さんになってもらわなきゃなりません。ね、現在でも十からの支店が九州中にあります。使用人だけでも寿司屋さんで百人も使ってるというのは、沢山なありますまい。けれども、自分はそういういうならば大きな店の社長としてのという事がです、ね、形はでけておっても本当に有難い勿体ないが、いよいよ頭が地についていくというような生き方にならなければ、従業員がひとごっちゃいけません。同時にこれは神様のおかげを頂かなきゃならんのですけれども、ね、繁盛のおかげにもなりますよ。
夕べ十一時ごろ、御祈念をさせて頂いて、御祈念終わりましたら丁度桜井先生が参っておられました。福岡へお出でられて、昨日も一日いうならば、合楽の宣伝に使うて頂いた。自分の昔の教師仲間、当時一緒に修行しよったお方達のところへ、とにかく、今合楽で只今おかげ頂いておる事実を、昨日、一昨日もお出でられた時にその事を一生懸命にお話を聞いて頂いとりましたら、こんなに遅くなったというておられました。本当に有難い事だなあと思うたんですが、又送りだしてから神様にお礼を申しさして頂いとりましたら、『大学教授』という事を頂いた〈んです〉。
桜井先生の信心はね、もう小学校の先生でも中学校の先生でもない、大学生にしかもう、教えられるだけのものを身につけていきよるという事なんです。
成程、まだ【 】の上においてです、ね、ああ、信心しなされから本当に偉い、お金持ちになんなさったとか、りっぱなお家に住まわれるようになんなさったという事はないんでしょうけれども、資格としては、もう大学生にも教えてよか信心のですよ、信心の大学生にでも教えてええ程しのものを身につけていきよんなさる。
これが、大学教授、信心の大学教授として迎えられる頃には、沢山の人が助かる事でしょう。ね、けど、沢山の人が助かるようになってからが恐いのです。
今は、自分で大学教授になれるだけの信心がでけとるとは思うてないでしょう。まだ、足りん、足りん、でしょう。それは自分の周辺をみながらそれを感じられるだろうと思う。けど、私は申します、合楽の人達がみんないうならば、億万長者になってもらわんならんという祈りを持っておる私ですから、皆さんがどうでも、いうならば合楽の御神縁を頂いておる人達がみんな、本当の意味に於いての真、善、美の世界という、極楽の世界、ね、それを合楽の世界という事にまで高めていかなければならない。ね、だからもう、みんながそういうおかげを頂いてもらわなければならんが、そのおかげを頂きつつある一つの段階を登っていくにしたがってです、果して自分の心がです、ね、下の方へ、下の方へと下がっていくような事になっておるかという事。 ところが人間、誰しもが持っておる傾向ですけれども、少し地位ができたり、少しおかげを頂けれようになると、ね、私しゃ社長でございます、私しゃ総代でございますといったようなです、ね、総代であればあるほど、沢山の使用人を使っておる社長であれば社長であるほど、信心させて、そりゃ信心のない者は仕方がありません。そりゃ、地位がでけりゃ威張るのも当たり前、ね、金がでけりゃそれで贅沢するのも当たり前なんですけれども、信心をさせて頂く者はです、身に徳を受けて行けば行く程に頭が下がる。丁度稲穂のようなものである。
実が実れば実程、下へ下がっていかなきゃならん。だから現在少しづつでもおかげを頂いて行けば頂く程、頭が下がっておるかどうかという事をです、しっかり心に極めておきませんと、もっと実ったらおかげ頂いたら、もっと下がらなきゃならんのですから。ね、
昨日、久留米の久保さんが夫婦で毎朝ああしてお参りになります。本当に久保さん有難い事ですねと、何がそんなに有難たいかというと、ね、火事で丸焼けになったというが、いう事が有難とうしてこたえんよと話した事でした。その後に於いての様々な事の上から、ね、もう本当に神様のお働きと言わなきゃおれない程しのおかげを頂いて、もう御普請も立派にだんだんでけていきよります。
その完成がだんだん近づいていくその出来上がっていく家をみてから、夫婦の者がです、もうどんなに考えても、神様のおかげといわにゃおれないという程しの働きを受けておる。だから家が立派にでけていきよるという事が、有難い事じゃない、丸焼けになったという事が有難い。丸焼けになったおかげで夫婦が本気で信心がでけるようになったという事が有難い。本当のところに有難いを感じられなければ駄目だと。 只、家が立派になったという事が有難いなら、出来上がった時にそれこそ立派な家に住めば住む程、鼻が高うなってくる。
けれども、こういうものがでける前提、その前に丸焼けになったというおかげがある。ね、そのおかげで夫婦の者がこれだけ熱心に信心を頂く〈というようになった〉という事が有難い。家が立派にでけるのが有難いのじゃない、ね。ですから今こそお互いがです、ね、すこ-しづつおかげを頂いていっておるのに、もう、たった、すこ-ししかおかげ頂いとらんのに、もう頭が下に下がらんごとなりよるような傾向が、もし、あるとするならば、由々しき事ですから、ね、なら、高橋先生あたりの、こりゃまあ、【 】信心ですけども、ね、信心の大学生というだけでも素晴らしい。
けど大学生に、まあいっちょ、教えてよい程しの資格を頂いていって、ね、00大学から教授としてそうげいされると、取立られるという時にです、今の信心を忘れるような事があってはです、忘れるというよりも身がいればいる程、頭が地に下がっていくような傾向というようなものがなからなければならない。
ところが、少しおかげ頂けばもう、慢心が出るような傾向があるとするならばですこれはうんなら、最後にですね、天で頭を打つような事になる。
例えばそれを大きくいうのが、なんとかという大予言じゃないですけれども、二十五年後には地球の人類が破滅するんだと、地球が破滅するんだと、それは思いあがった人間がですね、いうならば、地球に満ちてきた、そういう人間ばかりになっきた。 だから、いうならば神様ですね、そこんところのお気付けを様々な意味合いで、先日から申しますように、ね、いうならば、公害問題、又は資源の問題、人口の問題このままどの問題をとってもです、今のままいったら、そういう例えば、計算の上にたつても、地球は破滅するという事になる。
大予言ではなくてもです、そういう由々しい時なのですから、ね、これはもう世界の総人類が共通した難儀の諸問題であります。
そういう事に今当面しているのです人類は。ですから、今こそ総人類がです、本当の謙虚さを取り戻さなければならんのです。そこにはです、だから私共がまず、人間の値打ちというもの、価値というものをです、価値観というものをです、ね、どこに置くかという事によって決まるのです。
立身出世でもなからなければ、億万長者になるという事が、値打ちじゃないのです それはどこまでも人間の幸福の条件ではあるけれども、枝葉なのです。一番の幸福の条件は心がです、いうならば、一年々信心をしておれば有難とうなるとおっしゃるが、有難とうなっておるかどうかなのです。おかげを頂けば頂く程頭が地にさがっていっておるかどうかという事なのです。これが人間の値打ちなんです。ですから私共おかげを頂く者宗教人がです、世界の総人類に呼びかけなければならない事はです、価値観の置きかえをいわなければならんのです。
人間の値打ちというものは、そういう物、形とか地位、名誉とか金とか財産じゃないんだと。ね、その心がどれほど謙虚になっていっておるかという事だ、どれほど実れば実ほど頭が下がるような傾向にあるかという事をです、ね、見直さなければならない、改めていかなければならない。
そして天地の御恩恵に対してです、本当の意味おいての神恩、それに対する報謝の生活というものがなされるような生き方になる時にです、私はいよいよ地球は立ち直る、ね、人類はいよいよです、共存共栄のいうならば、おかげにつながっていく。
大きく申しますとそういう事になる。だから、ね、世界総氏子の身の上安全とか、世界真の平和とかこう申しますとえらい大きな事のようにありますけれども、それは私自身がです、ね、先ずは私自身がです、そういう有難い事へ、謙虚な実れば実程頭が下がっていくほどしの傾向にあるかどうか、人間の価値観というものをそこに置いておるかどうかという事を確かめていく人達が段々できてくる事なのです。
で、まあ、久保さんの例をとりましたように、立派なお家がでけていっておるという事が値打ちじゃない、ね、もう本当に家を建てなければでけないように、丸焼けになったという事が有難い、ね、その丸焼けになったという事によって、いよいよ夫婦の者が本気での信心がでけるようになったという事が有難い。だから夫婦の者がです本当にこの家は神様に頂いた、神様に建てて頂いたと思うから、それからが本当のおかげになってくる。主人の方は信心してから、ああ、おかげでこの家がこんなに立派に出来あがったおかげだねというてもです、家内の方がそりゃ私共が精進努力したけんでけたったいというなら、もう、それでもう神様の神恩報謝の生活はでけなくなってくる。そういう危ないところにたっておった久保さん達が、そのお家が丸焼けになったという事を境に、夫婦の者が力を合わせて、信心がでけるようになったという事が有難い。しかもその信心もです、立派な家が建ちますようにという信心ではなくてその事によって、自分の価値観というものが変えられた、夫婦がこのままいきゃ、いよいよ有難い、ね、あなた百までわしゃ九十九までというおかげを頂くと同時に、年を取れば取るほど、夫婦の者が有難とうなっていくという傾向になる、そういう傾向がこの時でけた、あの時でけたというようにです、それが備わっていくという事が一番有難い。
立派な家がでける事為のお参りであってもつまりません。願わにゃなりませんけれども、それによって自分の心が実れば実ほど、ね、このままいきゃ実れば実ほど頭は地についてくるという自分というものを、はっきりみきわめて信心を進めていかなければならんと思いますね。
どうぞ。